本が好きです。
正確に言うと、本を「読める人」に憧れています。
書店に入ると、あの独特な紙とインクの匂いが心を落ち着かせてくれます。ずらりと並んだ背表紙を眺めているだけで、私は新しい世界に足を踏み入れたような高揚感を覚えます。話題の新刊、ずっしりと重い専門書、表紙のデザインに惹かれたエッセイ集。どれもこれも、私をより賢く、より豊かにしてくれる魔法のアイテムに見えるのです。
「これを読めば、新しい知識が手に入る」
「これを読めば、何かが変わる気がする」
そんな期待に胸を膨らませて、レジへ向かう私。新しい本を手にした瞬間は、もうその内容をすべて理解したような、自分が少しだけ成長したような、そんな錯覚に陥ります。
でも、私には大きな弱点があります。
家に帰って本を開くと、途端にその高揚感はしぼんでしまう。ページを埋め尽くす活字の羅列を前にすると、まるで目の前に厚いガラスの壁があるかのように、文字が私の頭に染み込んできてくれないのです。
第一の壁:活字の森に迷い込む私

なぜ読めないのか。自分でもその理由を何度も考えました。
まず、集中力が極端に続かないこと。読み始めてわずか数分で、心はあらぬ方向へ飛んでいきます。頭の中では、昼に食べたラーメンのことや、明日の仕事のタスクが延々と再生される。時計の針が動く音、隣の部屋の物音、そして何よりスマホの通知音が、私の集中力を容赦なく奪っていくのです。
そして、ページをめくることへのプレッシャー。読書に慣れている人にとっては当たり前の行為でしょうが、私にとってそれは「タスク」です。ようやく1ページを読み終えると、「次も読まなければ」という義務感が襲いかかり、精神的な疲労感がどんどん蓄積されていく。気がつけば、本を読むこと自体が苦痛になってしまうのです。
さらに、活字が持つ特有の「重み」。XやInstagramの短い文章はスラスラ読めるのに、本の活字は重く、脳が情報の処理を拒否しているかのように感じます。インクのシミのようにしか見えない活字を必死に目で追ううちに、いつの間にか眠気が襲ってきて、気づけば本を胸の上に乗せたままうたた寝している。こんなことがしょっちゅうです。
第二の壁:読書タスクとの終わりなき戦い
「このままではいけない!」と、私は何度も読み切ろうと試みました。
「よし、今日は絶対に読むぞ」と意気込み、カフェへ行ってみたことがあります。
周りの人が真剣に勉強しているのを見れば、自分も頑張れるはず。そう思って本を開くものの、気が散って仕方ありません。店内に流れるBGM、隣の席の人の話し声、窓の外を歩く人々の様子…。結局、本を1ページも進められず、ただコーヒー代を払って帰ってくるだけでした。
通勤電車の中なら集中できるはずだと、挑戦したこともあります。
しかし、人混みの中でページをめくる煩わしさ、乗り換えのたびに中断される読書。何より、手軽に暇を潰せるスマホの誘惑に勝つことはできませんでした。結局、電車の中では、本はただの重い荷物になるだけでした。
「読書術」と題された本を読み、付箋を貼ったり、マーカーを引いたり、書き込みをしたりもしました。
しかし、付箋を貼る作業自体が面倒になり、マーカーを引く箇所も分からず、ただページを汚すだけに終わってしまいました。私は、「どうすれば集中できるか」「どうすれば読み切れるか」というノウハウばかりを探し求め、肝心の本の内容に意識を向けることができなかったのです。
第三の壁:本がボロボロになるまで
結局、買った本は「いつか読む本」として本棚の片隅に置かれたまま、存在を忘れられていきます。
次に本を手に取るのは、部屋の掃除をするとき。久しぶりに手に取ったその本は、端が折れ曲がり、ページは日焼けしてセピア色になり、めくるとパリパリと音がする。買ったときの真新しい輝きはどこへやら、そこにはただの「読みかけの本」があるだけです。
私の部屋には、そんなボロボロの本がいくつもあります。
それは、まるで僕が手放せなかった「いつか読みたい」という気持ちの証です。そして同時に、文字が苦手な私と、読める人になりたい私の、ささやかな戦いの痕跡なのかもしれません。本棚に並んだその本たちは、私自身の過去の願望や挫折を静かに物語っているようです。
「これ、買ったきり読んでないんだよな」
そう口にしながらも、捨てることはできない。なぜなら、その本には「読める自分になりたい」という、あの日の私の希望が詰まっているからです。
今日も私は、本屋に立ち寄ります。
そして、新しい本を手に取る。
今度こそ読み切れるだろうかと、淡い期待を抱きながら。ボロボロになるまで読み切れない本たちを、私はそれでも愛しています。なぜなら、それは私の「読書人生」そのものだからです。

